【長谷川等伯】を褒める

《たゆまぬ努力で多彩な技術を極めた雪舟五代目の男》

2012年安部龍太郎氏によって書かれた小説『等伯』はとても優れた作品で、長谷川等伯(信春)の生き様がよくわかる作品でした。古い歴史上の人物なので、史実はどうかわかりませんが、そのストーリーの影響も多分に受けての褒め記事であること、ご理解ください。

元々武家に生まれた等伯ですが、やがて染物屋の長谷川家に養子として迎えられます。ここで、等伯は雪舟の弟子である等春に絵を学びます。この当時は仏教画が多く、まずは絵仏師として世に出ました。

しかし、その後両親の死後、染物屋を廃業し本格的に画業を志し絵修行に身をおいてから等伯の才能は目覚ましく花開かれることとなるのでした。
これまでの仏教画にとどまらず、肖像画、折枝画、屏風画、武家風俗画、水墨画と多彩な挑戦を試みる等伯。そして、そのいずれの分野においてもプロフェッショナルとして極めるのだから凄い。小説ではこんなに何でもできる絵描きが、棒をぶんぶん振り回して、荒くれ者どもを蹴散らすのですから手がつけられません(^_^;)こんなに万能だと、レオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせますよ。しかし、等伯を褒めなければならないのは、天才型のダ・ヴィンチと違い、彼は精進を繰り返してその技術を手にしたということです。並々ならぬ努力で卓越した技術を獲得した彼は秀才型の人物だったのです。

その後、名声を高めた等伯は襖絵に着手するようになります。そこに立ちはだかったのがあの狩野派、そして当代一の絵師である狩野永徳でした。結局、永徳によって退かされることになった等伯ですが、小説においてもその負けを認め、敬意さえ払っていますね。おそらく秀才型では到底追い付かない本当の天才、それが狩野永徳だったのでしょう。(そういう意味では日本のダ・ヴィンチは狩野永徳なのか!?)

しかし、その数年後に狩野永徳がこの世を去ると、豊臣家から障壁画の仕事が舞い込んでくるという幸運に恵まれ、狩野派に負けない名声を手に入れることになりました。まさに絶頂期と言えるでしょう。けれども等伯の幸せは意外なところで打ち破られるのです。後継として力量も十分で既に世に認められつつあった息子の久蔵が26才の若さで亡くなるのです。こうして悲しみの淵に突き落とされた等伯。皮肉にも手掛けている作品は豊臣家の長子鶴松の菩提を弔うという仕事。通常であれば、この作品を完成させることはとても困難なことであったかもしれません。ところが、等伯は驚くべき事に、ここで彼の代表作となる『松林図屏風』を完成させるのです。この絵を見ると墨の階調により靄(もや)を見事に表現しているのですが、これが等伯の物悲しさを雄弁に語っているようで泣けてきます。

若い頃には武術にも秀で、多彩で完璧な鉄人のような男だった等伯が、こうして息子の死に悲しみにくれる人間的な弱さを表現する絵師として姿を変えたのは、とてもドラマチックだと思えますね。

彼の作品は独特のタッチと筆線を有しており、落款(サイン)不要の画家といわれました。岩や枝、毛並みなどはとても緻密で、『枯木猿候図』や『花鳥図屏風』にその凄さが見てとれます。荒々しさと静けさを見事に調和させた長谷川等伯、前述のとおり、これらがたゆまぬ努力の上に成り立った成果であることを最大限褒め称える必要があるでしょう。

彼は晩年、自ら「雪舟五代目」と名乗るほど自信をもって、その波乱に満ちた生涯を終えたのでした。

 

おすすめ5選

『松林図屏風』
『枯木猿候図』
『山水図襖』
『南山四晧図襖』
『竜虎図屏風』