【『氷壁』井上靖】を薦める

2021年6月14日

読書のススメ(5分で読めるよ)

私は山登りが好きではありません(登山家および登山愛好家の皆さん、ごめんなさい)。

私自身とても意気地なしで、すぐに根をあげてしまうのです。過酷な環境に耐えきれず、頂上についたときには景色を楽しむ余裕もなくなっていて、楽しみにしていたお弁当なども喉を通らないことも多かったからでしょうか。正直、山登りにいい思い出がないのです。

ところが、不思議なことに小説の世界における山岳ものとの相性はとてもよく、新田次郎さんの『孤高の人』『聖職の碑』や笹本稜平さんの『その峰の彼方』、最近では下村敦史さんの『生還者』『失踪者』など心に残る作品に多く出会うことができました。なんでしょうね、私は絵も絵心がないから美術に凄さを感じ興味を示したりするので、それと似たようなことかもしれません。登山にコンプレックスがある分、それを成し遂げる人たちの凄さに身震いするほど感動しちゃうのでしょう。そして、その山岳ものの最高峰であり、私の山岳ものの原点とも言える作品が井上靖さんの『氷壁』なのです。人生のナンバー1の愛読書がトルストイの『復活』ですから、国内小説でナンバー1の愛読書はこの『氷壁』ということになります。

奥穂高の難所に挑んだ会社員・小坂乙彦は切れるはずのないザイルが切れて墜死してしまいます。小坂と同行し、彼の死を目の当たりにした主人公・魚津恭太は、小坂の自殺説も含め数々の憶測と戦いながら真相を探ろうと必死になります。魚津にとって登山家が神聖な山で自ら死を選ぶなど到底考えられないものの、メーカーの落ち度も全く見当たらないのも事実であり、真相は文字通り闇の中。この信念を貫く魚津の不器用さが読み手の心を大きく揺さぶります。この作品の褒めどころの一つと言えるでしょう。

しかしながら、作品においてこの真相の行方より重要なテーマが後半、浮き彫りになってきます。小坂と不倫関係にあった人妻の美那子に対して想いをおさえきれない魚津。そして小坂の妹で魚津を慕うかおるとの関係が、一気に複雑な恋愛模様を加速させていくのです。このあたりの心情描写は、読者によってはイライラさせられるほどで、この中の誰かを嫌いになってしまうくらいではないでしょうか。でもそれこそが人間の説明のつかない感情というものだと思うのです。文豪ならではの筆力を感じる部分でもありますね。

最後、様々な決断を自らの登山家としての生き様に書ける魚津の生き方はとても尊く、心揺さぶるものでした。自らの決断を正解とするために、その決断を後悔しないために、登り続ける魚津の姿は今思い出しても涙があふれるものです。

なお、これは史実であり1955年のおきたナイロンザイル切断事件が元に作られた小説です。実際にメーカーの安全基準がこの事故によって見直されるきっかけとなったそうですが、作品はその点は一線を引いて、慎重に書かれています。

余談ですが、魚津の上司である常磐大作が個人的にはとても好きで、その口癖が私の脳裏にこだまします。「ばかめが!」と。パワハラでもなんでもないですよ、愛情に満ちあふれた言葉なんです。

レビュー

<読みやすさ>

登山ものとしてはとても読みやすく、ページをめくる手は止まりません。あっという間に読み切ってしまう人も多いと思います。ただし、胸が締め付けられるようなシーンも多く、そこでゆっくり手を止めるのもありです。

<面 白 さ>

山岳ものとしても恋愛ものとしてもとても優れていて堪能できます。社会派としての側面も持っており、現在では池井戸潤さんの小説に似ているような気もします。

<上 手 さ>

なんと言っても大御所ですから流石の一言です。心情描写のリアリティについては迫真で読み手の心まで掻き毟ってきます。ストーリー展開も絶妙な上、実際の事件と関連させて迷惑がかからない配慮もなされています。

<世 界 観>

壮大以外の何物でもないでしょう。それは“山”という自然の壮大もさることながら、社会全体をとりまく大きさ、人間関係を映し出す緻密さ、結末の余韻の深さなどトータルして壮大な世界観なのです。

<オススメ度>

私はこの小説は10度は読んでいると思います。さすがに近年は読まなくなりましたが、毎年読んでいた時期があります。それくらい、この小説に影響を受けました。ぜひ読んでいただきたい作品です。