【前期印象派】を褒める

2021年10月3日

《落選展覧会に始まり、瞬く間に美術史に残る一時代を築いた印象派》

これまで“マネ”“モネ”“ルノワール”“ドガ”といった印象派画家を画家個人単位で褒めてきました。今回は印象派全体を褒めていきたいと思います。“ゴッホ”“ゴーギャン”といった後期印象派とは区別するため前期印象派という括りで褒めていこうと思います。なお私は専門家ではありませんので、前期印象派の歴史をなぞらえながら、私が個人的に感心したことを褒めるという形をご理解いただければ幸いです。

注)今回は少し長めの記事です。15分くらいかかっちゃうかな(^_^;)

1.印象派とは
2.  マネの起こしたスキャンダル
3.  印象派画家たちの試み
4.  マネ、モネ、ルノワールの比較
5.ルノワールの裏切り
6.前期印象派の終焉

1.印象派とは

「そもそも印象派ってなんなの?」絵画にあまり詳しくない方にとって「印象派」という言葉はよく聞いても、どのような時代のどのような絵画を指しているのかあまりはっきりしていないかもしれません。ほんとはね、そんなことどうでもいいんだと思います(^_^;)。どの時代の画家だって「描きたいものを描いている」はずですし、自分のことを何派だの考えて描いている人は少ないと思います。今、もし自分で絵を描かれる方がおられたら、「あなたは○○派ですね」と言われても困ると思います。それは印象派画家たちだって同じことでしょうね。ただ、もちろん美術史の中ではきちんと区別されて・・・ないのですよ、これが(笑)。「えっ、そうなの!?」という声が聞こえてきそうですね。そうなんです、実はどこからどこまでが印象派という明確な定義はないのです。これってちょっと凄くないですか。だって定義がないのに、先ほど触れたようにあまり絵画に詳しくない方でも知っているだなんて。結局、ざっくりと「“マネ”は印象派画家だ」といった画家による区別はあるのですが、それも後付けのようなところがあるのです。

もともとサロン(官展)向けの展覧会に多くの画家が出品するようになり、その作品の実に7割が落選していた状況が背景にありました。せっかく時間をかけて作成した作品が日の目を見ないのですから画家たちの不満は募るばかり。そんな中で入選しなかったメンバーが審査なしのグループ展覧会を開いたのです。ここに出展した全8回の参加者となる56名こそが印象派と言える画家たちであり、その画風ではなく単純に参加者ということで前述のとおり定義(?)づけられたわけです。ここに私の褒めたいところがあります。彼らは度重なる落選に諦めることなく自分たちの行動によってその後の歴史を切り開いたのです。もしこのような彼らの行動がなければ、印象派絵画のような作風の登場はもっと後になっていたかもしれません。しかも当時の逆風を考えると、彼らの並々ならぬ意欲であっても挫かれてもおかしくありませんでした。

では何故、印象派と呼ばれたのでしょうか?これも理由はおそろしくいい加減です。曲がりなりにも注目を集めたこの落選展は残念ながら酷評の嵐でした。そして第1回の展覧会に展示されていたモネの「印象・日の出」というタイトルの作品を揶揄して批評家によって名付けられたものだったのです。気難しい「セザンヌ」などは、この評価に嫌気がさし、展覧会への出品を早々とやめてしまったほどです。こうして図らずも印象派という名が世に広まってしまったのでした。

2.マネの起こしたスキャンダル

残念ながら芳しいスタートを切れなかった落選展。よく言われるのは、彼らの新しい技法が衝撃すぎて時代が彼らに追いつかなかったということですが、もちろん本質的にはそういうことになるでしょう。けれども、実は印象派絵画の技法そのものは、すでに“クールベ”“コロー”“ミレー”らバルビゾン派と呼ばれる画家たちによって世の中に出てきてはいたのです。すなわち写実主義の限界を感じ、模写はどこまでいっても模写にすぎず、行き着くところは写真でしかありませんでした。そして個性はなくなり、画家としての存在価値さえ危ぶまれることを、前述のバルビゾン派が気づき、新しい絵のスタイルを確立しつつあったのです。にも関わらず何故、印象派画家たちはここまで非難を浴びてしまったのでしょう。

そこにはマネの引き起こした大きなスキャンダルが横たわっていたことを認めざるを得ないと私は思うのです。今や美術の教科書に必ず掲載されており、場合によっては本の表紙さえ飾ることになる「草上の昼食」というマネの代表作が公序良俗に反すると批判の的となったのです。郊外でピクニックをしている着衣の男性と裸婦。しかしヌードは過去において何度も描かれており、そのこと自体が問題となったのではありませんでした。宗教絵画を中心に、女性の裸体は人間ではなく女神や妖精をモチーフとしているというのが大前提であり、人間の裸を描くことはたとえ男性であっても憚られたのです。にも関わらずマネはそれを人間として描き、過去の画家たちに対する冒涜として悪名を轟かせてしまったのです。今で言うところの炎上ですね(^_^;)謝罪会見でも要求されかねないレベルだったことでしょう。ヌードの是非はともかく、このことが後世に与えた影響は想像以上のものとなります。この絵が発表されて以降、画家たちは自由に絵を描けるようになったのです。一種の表現の自由の先駆けともなったわけです。ここにも私の褒めたいポイントがあります。これだけの衝撃を与え後世に影響を残すことになった大スキャンダルであればマネは社会的な抹殺を覚悟しなければならなかったのではないでしょうか。今後、絵を描くことさえできなくなるかもしれない中、しかも官展に落ち続けた状態でこの挑戦を世に問うた勇気を見逃すわけにはいきません。しかもマネは第2回の落選展において「オランピア」という作品でまたもや大スキャンダルを起こすのですから、炎上に炎上を重ねる行為をしたようなものでしょうね。“ティツィアーノ”の「ウルビーノのヴィーナス」という名作と比較されることになったこの絵も、娼婦とわかる仕掛けが作品に組み込まれており、「草上の昼食」同様大論争を巻き起こしました。これらのスキャンダルは、世間の人々から理解・容認の心を奪ってしまったと言えるでしょう。落選展は興行としても成功したとは言えませんでした。けれども、マネのこの発表から印象派画家たちの快進撃が始まるのは言うまでもありません。また別の意味で彼らの名は世に知られることになったのでした。

3.印象派画家たちの試み

印象派画家たちはバルビゾン派の考えと同じく、写実主義への限界をそれぞれ感じ取っていました。そこで彼らは作品を通して様々な試みに挑みます。この試みが作者たちによって大きく違いを見せるため「印象派絵画」の分類が難しくなってしまうのです。つまり各時代と大きく異なるところは、この印象派だけが作風ではなく時代と作家によって区分されてしまうというところです。ただ共通していたことがあります。それは彼らが「彼らの見た世界を表現するための独自の方法を求め続けていた」ということです。これも私の褒めポイントの一つとなります。印象派ほど技法に飢え、技法に拘り、技法を模索した時代はないのではないでしょうか。ある意味彼らに師はいないのですから。むしろ師がすべて反面教師であり、対立する抵抗勢力でもあったわけです。これだけでも生半可な気持ちで創作活動が続けられるわけがないことがわかります。後期印象派に入ると、彼らの人生が悲しく薄暗いものになっていくのも仕方のないことではないでしょうか。

ただ実際に技法への挑戦は前期印象派では希望に満ちあふれ、輝いていたことは否めませんし、ある程度の手応えも感じていたようです。

私の感じるそれぞれの挑戦をまとめると以下の通りです。

マネ・・・タッチ
マネはタッチに独特なものがありました。写実主義とは明らかに一線を画したその筆捌き。輪郭をあまり気にせず、思いのままに上書きを繰り返す手法で一目で彼の作品だと認識させられます。

モネ・・・光の反射
モネはあらゆる角度から光の反射を研究し尽くしました。光を描く手段として物を描いているかのごとく、時には人物の表情や、街の看板などは無視されるほどでした。

ルノワール・・・曲線、色使い
人間の肌が持つ肉質感をその柔らかで優しい曲線と、幾千通りにも重ねられた色の配合によって、これまで見たことがないような作品を作り出し、穏やかな作風を実現しました。

ドガ・・・動き
踊り子や競馬を題材に、どうすれば見るものにその躍動感が伝わるかを追及しました。あえて構図におさめなかったり、本番ではない部分をテーマに選んだりしています。

ピサロ・・・大きさ、広さ
広大な自然などをいかに優雅に見せるか、何もないところ、人のいないところを強調し、全体的に重みのある動きの少ない部分に焦点をあてることが多かったりします。

セザンヌ・・・構図
形を長方形や正方形を使ってどんどん単純化していき幾何学的な作品を生み出していきます。色や形も単純化するので、他の印象派の技法とは真反対のアプローチをとります。

シスレー・・・ありのまま
印象派の画家にしては珍しく技巧をあまり用いず、ありのまま自然のままを描こうとします。もちろん、彼の目に写る状態そのままという意味であり写実のことを指してはいません。

スーラ・・・点描
塗ることを止め、細かい点を打ち続けることで作品を仕上げるという有名な手法を考案。試みは斬新で成功したと言えるが、印象派画家からは認められませんでした。

4.マネ、モネ、ルノワールの比較

“マネ”“モネ”“ルノワール”の3人はお互い親交も深く、よくキャンバスを並べて同じ風景を描いていたことで知られています。今回は「ラ・グルヌイエール」と「庭のモネの家族」を紹介してそれぞれを比較してみたいと思います。絵はググってみてね。

「ラ・グルヌイエール」

実は私の以前のヘッダー画像はモネとルノワールの「ラ・グルヌイエール」を並べたものでしたが、その画像の他にももっとわかりやすい絵がありますので、ネットでしっかり調べ尽くしてください(他人任せ・・・すみません)。

セーヌ川湖畔にある行楽地で船が何艘か並べられているこの風景を二人はよく描いていました。これを比較するとモネは風景画家であり、ルノワールが人物画家であることがよくわかります。モネは明らかに川面を中心に描いており、光が水面にどう反射するのかを必死にとらえようとしています。そのためそのきらめきはとても美しく、作中の人物や動物に目がいきません。一方のルノワールは水のことなど全く眼中にないかのごとく、水面は緑に濁っており、藻が茂っているのかと疑いたくなります。しかしながら人々の表情が憩いの場でゆったりとしていることや犬が気持ちよさそうにねそべっているところまで細かく描いているのです。

「庭のモネの家族」

こちらはマネとルノワールの比較となります。ある夏の日にモネの家に集まったマネとルノワールはふらっとモネの奥さんと子供さんを描き始めるのでした。マネはその独特のタッチで人物はもちろん風景について一枚の習作を仕上げるかのごとく描ききっています。表情は細かくなくてもその塗り方によって穏やかさを見事に表現しており、夏の日の暖かさ(暑さ)をもまた塗り方で木々の活力を見せて表現したのです。ルノワールの作品に目をうつすと、マネとはそもそもフォーカスしているところが違います。後ろの木々は描かれておらず、モネ夫人とご子息の表情をズームアップして優しく丁寧に描いているのです。同じ題材をとっても彼らは個性をむき出しにし、技法を闘わせていたことがわかります。決して仲が良かっただけでなく、拘りをもって作品を仕上げていた。それは日常、近くにいる仲間と切磋琢磨し続けることで妥協を許さなかったたゆまぬ努力の現れでした。私がこの点を褒めないわけにはいきませんね。

5.ルノワールの裏切り

ルノワールの褒め記事にも書きましたが、彼は印象派画家たちに謝罪をするにまで至った裏切りをしてしまいます。といっても、悪質な裏切りではありません。いや、けれどももしかすると印象派画家たちの中では、これこそ悪質だったのかもしれません。ルノワールの作品を見ていくと、時に写実絵画を思わすような美しい絵画に出会うことがあります。有名な作品で言うと「大きな水浴の女たち」などがあげられ、アングル様式で描かれたそれはとても印象派の、ルノワールの挑戦とは呼べないものでした。もちろん作品としては素晴らしいと私は思いますが、やっぱり印象派らしくはないですね。これにははっきりとした理由があります。もともと印象派画家たちはサロンに落選し、収入が見込めなくなるのを回避するため落選展を開いたくらいですから、貧しい暮らしを強いられていました。そういった環境の中で描きたいものが描けないという現実もありました。ゴーギャンなどはその貧困から、絵の具をたくさん使えず、それを逆手にとった技法を編み出したくらいですから、それはそれで大したものですね。けれども誰もがゴーギャンのように貧しい中で自分の技法を見いだせたわけではありません。印象派の父と呼ばれたマネでさえ晩年は貧しい暮らしの中、描きたい絵が満足に描けなかったと言われています。ルノワールはそんな中、大衆受けする絵を描くことにより、一時的にお金を稼ぐことに執着します。このことは他の印象派画家たちの怒りを買い、人格者として知られるピサロ(なんとあの偏屈物のセザンヌでさえピサロには心を許していた)でさえ、ルノワールの裏切りを許せず、批判したというのですから相当なことだったのでしょう。ルノワールもその非を認め彼らに謝罪をしたのです。しかしながら彼らの絆に大きなヒビが入ってしまったことはもう元に戻すことはできませんでした。

結局、ルノワールはこの裏切りのおかげで潤沢な資金を手にし、後年、彼が本当に描きたかった作品をいくつも完成させています。「浴女たち」をはじめ晩年のルノワールの裸婦は、生涯の中で最も印象派らしい作品となり、技法の頂点に到達したとも言えるのではないでしょうか。人間関係が壊れてしまったことは甚だ残念ではありますが、この行為によって後世に財産が残されたのも事実であることを忘れてはいけません。

6.前期印象派の終焉

こうして時代の先駆者として次第にその活躍を認められていく印象派画家たちですが、その評価の高まりは終焉の始まりでもありました。最後の印象派展に現れたスーラやルドン、ロートレックの登場によって印象派は皮肉にも崩壊していくのです。前期印象派メンバーにとって後期印象派が受け入れられなかった・・・この事実は写実主義者たちが前期印象派を受け入れられなかった構図によく似ています。そしてこの時代に生まれた天才・ゴッホ。当時は誰もわからなかったことですが、彼の登場は、すべての印象派が霞んでしまうほどの衝撃を後世に与えるのです。これはまた後ほどのお話となりますので、機会あれば記事にしてみたいと思います。