【ミケランジェロ】を褒める

<三次元把握を駆使し彫刻家であり続けた芸術界の神的存在>

ミケランジェロは芸術界における神的存在と言えるでしょう。何しろ絵画にとどまらず彫刻、建築、さらには詩歌まで手掛けるという幅広い活躍。彼自身は画家ではなく彫刻家であると生涯主張していたくらいです。というより彼はそのような狭い範疇で括られることを嫌っていたのではないでしょうか。この世における表現そのものを神の如く自在に操ったそんな印象さえあるのです。しかし一方でその人となりはとても偏屈で怒りっぽくも寂しがり屋のとても人間らしい性格だったということを聞くと、神のような存在の彼をほんの少しだけ近くに感じられてしまいますね。同時にそんな一面もありながら芸術家ミケランジェロとして凛と立ち、フィレンツェ市民としての誇りを忘れないでいた彼の信念にも頭が下がる思いです。

彼の生涯は波乱万丈でした。成功をおさめ続ける芸術作品とは別に、彼の周りは目まぐるしく変化し彼の人生を左右します。そのせいで何度もフィレンツェを離れ、拠点を転々と移すことになるのです。にもかかわらず、行く先行く先で評価を高めていくのは、やはり只者ではありませんね、皆さん、ここ褒めポイントですよ。

ミケランジェロの才能の礎は面白いところにあります。彼は生まれて間もなく乳母のもとに預けられるのですが、この乳母の父も夫も石工。周りは石切場という環境で彼は育ちます。こうした中で彫刻の道へと足を踏み入れるのは自然な流れでした。そして、成長してフィレンツェで成功していた画家の弟子となるも、1年程度で師を凌駕する才能を見せつけ、そのこと故に周りから妬まれてしまうミケランジェロ。一説には彼の才能を妬む先輩集団から暴行を受け鼻をつぶされてしまったとか。この出来事がミケランジェロの反骨精神を育て、かえって芸術の分野で負けることを許さない強い精神を培ったようです。逆境をばねに成長するミケランジェロの姿勢は見習わなければなりません。

やがてその才を買われ名門メディチ家に宮廷の一員として迎えられるのですが、2年が経ち代替わりしたメディチ家から今度は冷遇されてしまい、また当時のフィレンツェの情勢不安を機に彼はヴェネツィア、そしてその後ボローニャへと居を移します。このような不遇な時代においても彼の創作意欲は薄れることなく、絶えずその技術を磨き続けます。そして短期フィレンツェに戻った際、作った『眠れるキューピッド』が一躍有名となりその名声を再び取り戻し、高らかに世にはばたくことになったのです。この逆転劇は文字にすると大したことがないように思えますが、実際には考えられないほどの努力と運、そして忍耐が無ければ手に入れられなかったでしょう。このような歩みができることこそがミケランジェロの褒めても褒めきれないくらい素晴らしい点かもしれません。これを契機に今度はローマに招聘され(これは前回のように逃げ回ったのではなく迎え入れられた)、『バッコス』『ピエタ』と立て続けに制作し、彼はついにイタリア彫刻界の第一人者として確固たる地位を手にします。そしてその後フィレンツェに戻り制作した『ダビデ』によってその名声は後世語り継がれ揺らぐことのない評価を手にしたのでした。

そんなミケランジェロを時の教皇ユリウス2世が放っておくはずがありません。彼に仕えることとなったミケランジェロは墓碑の制作を命じられたのですが・・・。ここからのユリウス2世とミケランジェロの関係はなんだか面白おかしいです。いや、そんな言い方しては当事者に失礼かもしれませんね。けれども、なんというか大物2人が何をやってるんだかって感じの可愛ささえ感じる小競り合いをするのですから、ここはあえて茶化して(もちろんそれは敬意を表するものです)書いてみましょう。

命じた墓碑の制作が遅々としてすすまないのに業を煮やしたユリウス2世が失望する ⇒ サンピエトロ大聖堂の全面改築をミケランジェロではなく他の建築家に依頼する ⇒ ミケランジェロは怒ってユリウスに会いに行く ⇒ ユリウス2世会わない ⇒ ミケランジェロはサンピエトロ大聖堂の定礎式の前日にローマから出て行ってしまう ⇒ ユリウス2世かんかんに怒って呼び戻す ⇒ ミケランジェロ慌てて謝る ⇒ ユリウス2世機嫌直して許してあげる ⇒ システィナの天井画をミケランジェロに依頼する ⇒ 絵を描くのは自分の仕事ではないと少しすねる ⇒ でもなんだかんだで完成しちゃう ⇒ その後フィレンツェとメディチ家の抗争でミケランジェロ、メディチを裏切っちゃう(いやフィレンツェ愛を貫く)⇒ 負けて処刑されそうになる ⇒ ユリウスが許してあげる ⇒ 『最後の審判』描いてあげる ⇒ 素晴らしい出来になんとか丸くおさまる

なんや、仲ええやんか(笑)

さてミケランジェロの芸術に目を向けて褒めていきましょう。彼の芸術の特筆すべき点は男性の裸像、雄大な描写ではないでしょうか。この時代は聖母像をはじめ多くの女性(女神)が好んで描かれましたし、現代に至るまで、女性の丸みや曲線を描くことがどの画家にとっても大いなる挑戦となっていました。そんな中、ミケランジェロはむしろ男性の姿に焦点をあてたのです。彼はどうしてこのような立派で雄大な作品を作れたのでしょうか。それはミケランジェロが人間の体の仕組みを理解しきっていたからなのです。筋肉や腱、血管の位置に至るまで全て彼の頭に入っていたと言われます。しかもミケランジェロは視覚的な記憶に優れ、思いのままに表現できたと言われます。彼以降、その表現に近づけたのはわずかに絵画の分野でルーベンスくらいではないでしょうか。しかも驚くべきことにミケランジェロは一つのポーズを二度と使わなかったのです。一体どれだけのボーズを表現できたというのでしょうか。さらにさらに驚くことにシスティーナ礼拝堂の天井画は首を上げ背中を反らした不自然な姿勢で描き続けたのです。これは有名な話ですね。結果として彼は落ちてくる絵の具により視覚に異常をきたし、背骨はあらぬ形に曲がってしまったといわれます。また彼の寿命が縮んだと責任を感じた前述のユリウス2世はミケランジェロの命を長らえるために何でもしたようです。結果、ミケランジェロは88歳の高齢まで長生きすることができました。

脱線してしまいましたが、こうしたミケランジェロの雄大な作品の基となっていたのは、ミケランジェロの持つ類まれなる三次元把握だと言われます。彫刻においては言わずもがな、絵画においては明暗によって浮彫のような奥行きを与え構図を立体化することができたのです。しかしミケランジェロはこうした絵画の限界を常々語っていたようです。すなわち浮彫を作れば作るほど作品の質が落ちていく、これは絵画という二次元における限界だと彼は考えていました。決して絵画を軽んじていたのではなく二次元ゆえの限界を悟っていたと言うべきでしょう。結果として彼は自らをあくまで“彫刻家”と定義続けていたのですね。こうして考えると、ミケランジェロの頑固なまでに一貫した信念は筋の通ったものだったと理解できます。素晴らしいの一言ですね。

オススメ10選

『ダビデ』彫刻

『ピエタ』彫刻

『トンド・タッディ』彫刻

『最後の審判』

『デルフォイの巫女』

『アダムの創造』

『太陽と月と植物の想像』

『楽園追放と原罪』

『ノアの方舟』