【後期印象派】を褒める

2021年10月3日

《前期とは全く別の手法で後の多くの美術史の基となった後期印象派》

前回、前期印象派を色々な画家を通して褒めてきました。今回は後期印象派全体を褒めていきたいと思います。後期を代表する“ゴッホ”“ゴーギャン”を中心に、前期印象派をさらに越えるために別の手法を模索し、後に多くの美術史を派生させる事になったその功績を褒めていきたいと思います。

注)今回も少し長めの記事です。10分くらいかかっちゃうかな(^_^;)

1.ゴッホと印象派
2.  ゴーギャンと印象派
3.  点描主義からキュビズムヘ
4.  新印象主義
5.後期印象派が残したもの

1.ゴッホと印象派

私が美術界における大天才を3人あげろと言われたら“ダヴィンチ”“ピカソ”そして今回とりあげる“ゴッホ”をあげることになるでしょう。けれども他の二人が神に遣わされたような天才であったのに対して、ゴッホについては人が神の領域に足を踏み入れたような天才というイメージが私にはあるのです。そしてそんなゴッホが残した最大の功績が前期印象派の普及であり破壊であり進化ではないかと思うのです。

そもそもゴッホとはいかなる画家だったのでしょう。いや、ちょっと待って下さい、ゴッホは画家だったのでしょうか。ゴッホが生きている間にはたった1枚しか絵が売れなかったというエピソードは多くの人に知られています。「赤いブドウ畑」という絵がそれですが、それ以外1枚も売れていないのですよ。現代においてそのような絵描きさんを画家と呼ぶでしょうか。むしろどこの絵描きさんでも1枚以上売れているのではないでしょうか。そういう意味においてはゴッホは絵描きではあったものの画家とは言えないのかもしれません。そもそも彼は弟のテオと同様に画商をしていたのですから。ゴッホという画家はゴッホの死後生まれたと言えるでしょう。

話が脱線しました。彼は画商として前期印象派の作品を売買する立場であり、そういう観点で見ると普及活動に貢献したとも言えるでしょう。彼は印象派の前段のバルビゾン派にも通じており、画商としての才覚を見せていたのです。また彼が絵を描き始めた頃は前述のバルビゾン派ミレーの模写をしていましたし、その後もピサロやロートレック、ドガといった印象派画家たちの作品に憧れ尊敬し模倣をしながら自身の技術を高めていったのです。

しかしながら、生来強烈なエゴイストであり心が強くなかったゴッホにとって、前期印象派の手法だけでは次第に飽き足らなくなり、より強烈な印象をキャンバスに残すために様々な手法をとるようになっていきます。ここからゴッホの前期印象派に対する挑戦、破壊が始まっていくのです。印象派と言えば官展(サロン)に対してモネを中心に光や自然、生物などをいかに表現するかの挑戦を試みたことで知られます。けれどもゴッホは、それと同様に前期印象派に対して挑戦を試みたことになります。その大きな挑戦は「色彩」でした。多くの人が目を奪われるゴッホの色使い。それは他の画家には真似のできないものであり唯一無二であったとも言えます。それもそのはず、その色彩は先述のゴッホの不安定な心の状態を表現したものであったからです。ゴッホの作品には多くの自画像がありそれぞれ有名ですが、その背景に目を向けて下さい。1888年の自画像は「安定の青」、1889年の耳切事件直後の自画像には「不安の渦巻き」、1889年の耳切事件から2ヶ月後の自画像には「情熱の赤」、1890年の自画像はもはや顔を覆ってしまうという変化が見られるのです。ここに彼の心の洞察が見て取る事ができます。そして登場した「渦巻き」はその後「オーヴェールの教会」「星月夜」「星月夜と糸杉の道」などにも使用され、不安な状態を見事に表現しています。

さて少し時代を戻してゴッホの挑んだ手法についてもう少し見ていきましょう。1921年に制作された「ひまわり」は言わずと知れたゴッホの代表的作品であり日本人はこの作品が大好きですね。印象的な黄色の使い方もゴッホの冴え渡る絵画理論によって構築されたものでした。この時期南フランスのアルルにうつって制作活動を行っていたゴッホですが、ここで南仏の突き抜けた空、広がる地中海、たわわな果実に囲まれ、その素晴らしさをなんとか表現しようとするのです。しかし前期印象派の模倣では決して表せない南仏の力強い生命力。そしてゴッホはあらゆる手法を一旦破棄し、青・黄・緑を大胆にそのまま使用することでその生命力を描こうとしました。印象派の手法から離れる事で結果として印象的な作品を生み出す事になったゴッホの挑戦。実はこの特徴こそが後期印象派の大きな流れを作ったのではないかと思えるのです。同時にこの色彩への強烈なまでのプライドが、やがて彼自身を傷つけ彼の病を進行させることになったのは皮肉としかいいようがありません。そしてその強すぎるこだわりは一切の妥協を許さず、行動を共にしたゴーギャンと決別することになったのは必然だったのかもしれません。

しかしその自身を死に追いやることになった強いこだわりによって作られた彼の作品はやがて後世の画家に大きな影響を与え、日本でも棟方志功、岸田劉生に受け継がれていくのでした。

2.ゴーギャンと印象派

さてそのゴッホと袂をわかったゴーギャンの話をしましょう。彼はもともと日曜画家で本格的な画家となったのは35歳の時でした。ゴッホが36歳でその生涯を閉じたことを考えると、かなり遅くからのスタートとなりました。これについてはゴーギャンの褒め記事に譲りますが、彼の才能の開花はやはりゴッホであり、ゴッホが刺激を受けた世界だったのです。そういう意味ではゴーギャンを覚醒させたゴッホの功績はやはり大きいですね。

パリでは花開かなかったゴーギャンの絵画ですが、ブルターニュ地方へ移って次第に彼の作風は進化していきます。都会の窮屈な暮らしが合わなかったのか、家族も捨てて自身の道を突き進んだゴーギャン。彼は前期印象派を越える創造に意欲的でした。ゴーギャンが切り開いた手法のいくつかを紹介してみましょう。

①フォルムの単純化

ゴーギャンの作品はとてもわかりやすく、幼稚なようにも見えてしまいます。前期印象派が表現のこだわりを進めた結果複雑なフォルムが多く見られるのと対照的です。

②平面的な構成と塗り方

どの作品も奥行きがあまり見られず、べったりとした平面的な作品が多く見られます。ドガが奥行きを立体的に突き詰めたのと対照的です。

③太い線輪郭

ゴッホの影響を受けたせいか輪郭が太い線で描かれています。こちらについても前期印象派のアプローチとは真逆であり、ゴッホの作品同様、強い生命力を感じさせるかのようです。

④見えないもの(心)の再現

タヒチにわたってからのゴーギャンは精神世界を描くことが多くなります。前期印象派が見たものを描く、見えているものをあらゆる手法を使って描いていたのに対して、もはや見えないものを描くという世界に至っているのです。実は後期印象派の画家たちのこのような考え方や挑戦こそが次世代の新しいムーブメントを作り出していくのです。これは後期印象派の褒めるべき最大のポイントと言えるでしょう。

3.点描主義からキュビズムヘ

「グランジャッド島の日曜日の午後」という作品を美術の教科書で見た方も多いのではないでしょうか。この作品は後期印象派とは言えないのですが、印象派展の後半に参加したスーラによる巨大な作品でした。そのあまりの大きさもさることながら、作品が細かな点を打ち込むことによって完成させられたことが話題を呼びました。前期印象派の明るい光の発見に刺激を受け、さらなる明るさを求めて実験を重ねた科学的な色彩論は、「色を混ぜない」というものでした。“すなわち混ぜてしまうと濁ってしまい、濁ってしまうことは光を失うこと”という結論に至ったのでした。その結果、無数に点を打ち込み遠目に見れば明るい表現が可能となるという手法が生まれたのです。これが点描主義です。この点描主義は今の私たちが見てもあっと驚く発想であり、しばしこの手の作品に夢中になったのではないでしょうか。残念ながら、この手法は画家に多大な負荷がかかってしまうことは想像に難くなく、実際スーラは31歳の若さでこの世を去っています。また意外にも制約があり、自由な表現だったはずが、逆に発想を奪い表現しづらくなってしまって、この形では広がらなかったのです。ただ、この手法は今の時代の画素という形で成果を得ているのではないでしょうか。時代の先取りをした手法であり、しすぎた手法だったのです。

ところで、私は先ほど「この形では広がらなかった」と書きましたが、実は違う形では広がりを見せ、次世代にきちんとバトンを渡しているのです。それが偏屈者(失礼w)セザンヌによる幾何学的手法です。セザンヌはこの点をもっと大きい形である「長方形」「正方形」にすることで作品を描いていきました。この手法であれば労力が多大に必要となることはありません。そのかわり、スーラが実現したような明るい光も表現できません。だからセザンヌの作品は暗い感じのものが多いですね。実はセザンヌの褒め記事にも書きましたが、この長方形の集合体が、後のキュビズムに繋がっていくのです。またシニャックも分割手法という形で点描主義を広め、それがマティスに受け継がれていくのです。マティスは点をタッチに変換させフォーヴィズムを確立させていきます。先日、ポーラ美術館展が開かれていたので見に行ってきたのですが、順路を進むにつれ、まさにこの流れを理解できるような掲載がなされており、とてもわかりやすかったです。後期印象派がこのような前衛芸術、近代アートへの橋渡しをしっかりと行っているのは褒めポイントですよね。

4.新印象主義

後期印象派画家たちが強烈な個性を残したものとは別に、スーラのように印象派展の後半に参加してきた画家にルドンがいます。「前期印象派を褒める」記事にも書いたように、印象派画家は印象派展に参加しているかどうかで分けられるため、かなり異質な作風が見られるルドンでも印象派に位置する事になります。そのため新印象主義と呼ばれたりすることがあります。ルドンについては、ゴーギャンが晩年、精神世界を描いた事をについて触れましたが非常に似た世界観を持っていると思えます。彼は孤独な精神世界を時には穏やかな花で表現したり、時には目をつぶった宗教絵画で表現したり、時には怪異なる生き物を描く事で表現しました。当然、前期印象派メンバーにとって受け入れがたい作風であったのでしょう。けれどもそのような精神世界の表現はやがて幻想画家と呼ばれることになり、後年ファンタジーの世界へと誘ってくれることになったのです。

また時代や流行とは一線を画したと言われるモローもこの狭間に生きた画家となります。彼はすでに時代を超越し、ふたたび聖書の物語などを題材に退廃的な世界を表現することになります。そしてその表現は教育の場において発揮されモローの教室から、マティスやルオーといった時代を築く才能が羽ばたいていくのでした。また退廃的な世界の象徴として連作“サロメ”の制作にとりかかっています。多くの“サロメ”が残されていますが、これもまた原田マハさんの作品にある「サロメ」で注目されたであろうビアズリーの挿絵など、様々なところに影響を与える事になったのがわかります。

また世紀末の退廃的なフランスはロートレックの作品によって表現されています。ロートレックはパリの夜の世界を愛し、それを題材に忠実にその時代を切り取って作品を残しています。彼はその気ままで堕落した雰囲気を好み、その喧噪の中で酒をあおり作品を描いていくのです。ルドン、モローとは全く別のアプローチで、精神世界ではなく現実の世界を映し出す事で、結果として当時のパリ市民の精神の動きを表現したとも言えるのではないでしょうか

5.後期印象派が残したもの

後期印象派および新印象主義がもたらしたのは、印象派そのものの終焉であり、新しい時代の礎ではなかったでしょうか。表現についてあらゆる挑戦を行い、あらゆる実験を行い、試行錯誤して作品を残したという点では前期も後期もありません。けれどもその時代のみで完結することになった前期印象派、その時代の輝きを放った前期印象派に対して、時代そのものを葬り去った後期印象派、新時代の派生の基となった後期印象派ではその役割もその意味もまるで違うのはとても感慨深いです。そしてそれがそのまま現代の私たちのイメージを決定づけているのではないでしょうか。前期印象派を「印象派時代」として楽しむ一方、後期印象派を「危うい不安定な時代」として認識している方は多いと思います。それもそのはず、後期印象派はその時代については破壊を行って、次に進んだのですから。イメージはさておき、これが美術史を間違いなく形成したのであり、流れの中での功績は前期印象派を上回る大きなものを後期印象派は残してくれたのではないかと思います。これは褒めても褒め足りない功績だとは思いませんか。