【黒田清輝】を褒める

《印象派に交わり日本に美術教育をもたらした近代洋画の父》

印象派と日本の画家を語るときに浅井忠と黒田清輝の名前は必ずあがってきますね。黒田作品で私が最も好きな『舞妓』という絵は、印象派絵画の特徴がありありと浮かんでいて、マネのそれを思わせます。今回はそんな日本を代表する洋画家の黒田清輝を褒めたいと思います。

黒田清輝はもともと法律家として立つために法律を学びにフランス留学されたようです。しかしながら、芸術あふれるフランスにおいて、彼の芸術の才能が刺激され、留学中に画家への転身を図るのです。この行動力と決断力が私の褒めたいポイントの一つとなります。普通、留学中にそんな転身できますか。逆の画家から法律家への転身ならまだしもね(^_^;)

そこで彼はラファエル・コランに学び当時隆盛を極めていた印象派絵画の影響を受けることになったそうです。特に大きな影響を受けたのが構図。日本の絵画が決められた枠の中で計算され尽くした構図を用いて作品を仕上げるのに対して、ドガに見られるように自然をそのまま切り取り枠にとらわれない作品作りを身に付けたのです。また特筆すべき点がもう1つ。日本画にはその絵の背景や日本を象徴する何かを描くのがセオリーでしたが、黒田は何の変哲もないような見たままの背景を描いたのでした。

これには黒田のある種のこだわりも見られるように思うのです。印象派の影響を受けつつも、強い個性や他との大きな差別化を意識することのない黒田作品には、おおらかで素直な、それでいて落ち着きのある画風が見て取れるのです。ここには画家の強い個性を作品にぶつけるといった激しさは見られません。私は黒田の日本人的な「趣き」「情緒」「静寂」の考え方が、印象派の強い個性と融合して、彼独特の洋画の世界を完成したのではないかと。もしそうであるなら、それもまた彼の素晴らしさであり、その挑戦を褒めずにはいられません。

さて、帰国した彼を迎えたのは、日本に起きつつあった洋画復興の波でした。彼の洋画は好意的に受け入れられ、“旧派閥・脂派 VS 黒田・紫派”の対立を囃し立て、その結果優勢派とされて黒田清輝は一躍時代の寵児となり、その地位と名声を確固たるものにしたのでした。

ここから黒田の美術における教育改革が始まります。一個人の手柄としてその名声に甘んじることなく、文化普及のために彼は尽力し始めたのです。このあたりが、画家としてだけでなく、教育者としても彼が秀でていたことを証明していますね。白馬会を創設し印象派画家たちのような交流の場を設け、東京美術学校には美術の教育課程を導入、美術の権威を高めました。美術教育者として講師はもちろんのこと、美術行政官となって数々の新しい試みを実現。果てはパリ万博の審査員まで務めることに。1910年には洋画家としてはじめて帝室技芸員に選ばれたのでした(帝室技芸員って、何かあんまりわかってないんだけど(^_^;))。

ただ、この事は黒田清輝自身の葛藤へと繋がっていったのは残念なことですね。あまりに公務に忙殺されることになった黒田に制作の時間はほとんど無くなっていったのです。晩年、鎌倉の別荘で制作に舞い戻った彼の寂しい発言を紹介します。

「私は芸術にかけては学生にすぎないのに、年の割に絵がうまくない。勉強する時間も色々なものに裂かれて、少なかった」

さて、この黒田清輝について「ザ・レイン・ストーリーズ」小説家の間埜心響(まのしおん)さんは次のようにコメントされています。

夕涼みをする婦人(黒田清輝さんの描く女性像には婦人という言葉が最も似合う)の絵を初めて見た時、軽く発汗し火照った肌の質感や、夏の夕暮れの微風まで表現されているのに驚きました。目を奪う奇抜さや尖った個性は無くとも、黒田さんの絵には温度や湿度があると感じます。また淡くて薄くておとなし目なのに、不思議に長い間ちゃんと覚えてられるという特長があるように思えますね。ご自身の制作時間を削ってでも日本画壇に尽力されたお人柄が、一見すると地味ながら長く愛されるその画風に何より反映されているようです。

しおんさん、ありがとうございます!

 

おすすめ5選

『舞妓』
『湖畔』
『花野』
『夏草』
『読書』