【佐伯祐三】を褒める

2022年6月16日

<生命をかけてフランス美術観を追い求めた早逝の情熱家>

佐伯祐三という画家についてはその作品以上にその生涯に注目してしまいます。結核の恐怖を隣り合わせでありながら、生命を削って絵画に没頭し、憧れのフランス芸術を追い求め続けた。その生涯は痛々しいまでに私達の心を揺さぶります。そして同時に作品に目を向けるとその生涯が投影されたように思えるくらい情熱的で哀しいのです。わずか30年の生涯で残した彼の壮絶な生涯については、美術の褒め記事を始めた当初から、いつか取り上げて褒めたいと強く願っていました。

パリに憧れ、印象派に憧れ、ゴッホに憧れた佐伯祐三は幼い頃、成績も良くなく、ずぼらな性格から「ずぼ」と呼ばれいたそうです。ただ、本人の絵に対する執着心は殊の外強く、雨の日でもずぶぬれになりながら絵を描き続けました。晩年、この雨に打たれて制作したことが体を悪化させたのはあまりに皮肉な事だけれど・・・。祐三の父と弟は早くに結核にかかり命を失っており、祐三も常に結核の恐怖と隣り合わせで生きていくことを余儀なくされました。しかしその恐怖をも上回る祐三の絵画への執着、そして西洋絵画への憧れ。特にパリにおいて隆盛を誇った印象派絵画の色彩や筆触に影響を受け、病弱な体にむちうってパリ生活を始めるのです。通常の人間がそこまで決意や覚悟できるかというと疑問です。この熱意に拍手を贈りたいですね。

パリに渡った祐三は憧れのゴッホに傾倒し3度もゴッホのお墓を訪れています。彼は常日頃から「ゴッホのように生きたい」と語っていたそうです。しかしながら最初のパリ生活は決して恵まれたものでもありませんでした。フランス美術に触れ、印象派絵画を進化させるべくフォーヴィズム(野獣主義)の路線を辿った祐三に、師のような存在だったヴラマンクに痛烈に批判されてしまうのです。すなわち真似事ではなく自分だけの個性的な表現を探せと。これで祐三はどこか旅行者目線で腰を落ち着けていた自身の姿勢を反省し、これまでのものを全て捨てる覚悟で試行錯誤を始めるのでした。何気なくこの文章を書いていますが、これは物凄いことだと思いませんか。そもそも病気の身でパリに渡った覚悟は相当なものであったはずなのに、それらを全否定することができるのは並大抵のことではありません。私達の想像を超えた覚悟が祐三にはあったということですね。これには敬服させられます。

そんな中祐三はいったんパリを離れ日本に戻ります。彼の体調を心配した兄がパリの寒い冬が体に障ると説得したためでした。しかしながら、このことはむしろ再渡仏の決意が強くしたのでした。ヴラマンクの警告から試行錯誤を続けた祐三は、ゴッホへの敬意を残しつつもユトリロに心を寄せ、シャガールの表現を学び、ルノワールの曲線を身につけていきます。「ずぼ」というあだ名からは考えられない生真面目さ、執着性、猛進性を見せ、画家として大きく成長していくのです。再びパリでの生活を始めた祐三に旅行者目線はなく、画家・佐伯祐三がここに誕生したのです。「暗さの中の光」「肉質表現」を自身の武器とし、「不連続の線」「墨書の筆触」は彼のオリジナルな表現としてヴラマンクへの満点回答としたのでした。病床の中でも結核に冒された自身の生命の長さを知り「時間がないんや」と精力的に作品を残し続けた佐伯祐三。画家としての苦悩、人生の苦悩、それらが詰まった祐三の作品は時として完成度の高さとは違う次元で思考と表現がぶつかり合い、衝突を見せています。それこそが生のエネルギー。結果、この矛盾したような衝突そのものが佐伯祐三という人間を、そして作品をあらわしているようにも思えますね。

最後の力を振り絞り「ロシアの少女」を描き、作品に瞳孔を描き入れたのは死の三ヶ月前。見開いた目に生への願望を見せながら佐伯祐三は死んだのです。まだ30歳という若さでした。天才とは違う、また完璧というものとも違う、文字通り生命をかけた情熱の画家、それが佐伯祐三という画家なのです。

おすすめ10選

『コルドヌリ』

『パリ風景(チンザーノの絵看板のある壁)』

『広告貼り』

『立てる自画像』

『人形』

『カフェ・レストラン』

『レストラン』

『リュクサンブール公園』

『郵便配達夫』

『ロシアの少女』